愛し沼の底

歪みかわいいコレクション

創作活動は排泄か性交か?

創作活動は排泄か性交かという話が盛り上がっていた。自分の個としての部分を露見させるとき、必ず付きまとってくる話題だろう。ここでは、言葉および物語を主として扱う私の意見を述べておく。

 

創作活動が性交と排泄に例えられる理由はどちらもインプットしたものをアウトプットする行為であるからだろう。その違いとは恐らく過程における再構築について、どう意識しているかによって変わる。排泄であるか性交であるか意味付けられるのは目的意識の差ではなかろうか。

 

快楽がそれらを分かつのだという考え方も一理あるかもしれないが、性交の場合であっても自分だけが気持ちよいような一方的に放つ欲を持つ場合もある。排泄のような性交が行われることは現実においてもしばしばあることだ。何を持って性交とするのか? やはり本来の意味での性交は妊娠を含むのだろう。相手に何かを残せているか、否か。しかし、大抵の創作の場合、生身の性交とは違い相手の同意がなければ、子をなすことはできない。興味を持たれなければ、絶たれてしまう。快楽として無料で消費されるのではなく、時間や金をかけてまで感情に残ろうとするのなら、作品はシビアな承認競争の最中にある。

 

何かを創ることそれ自体の心地よさにより物を創るような人間の作品が、例え排泄的であろうとも観測するものに価値を与えられれば、それは性交に至る。アウトサイダーアートとして見なされるヘンリー・ダーカーの作品は本人の意向としては個人で慈しむべき妄想としてつくられたが、それを良しとした人により拡められた。逆に、性交的な創作が自慰的でしかなくなってしまったケースも存在する。かのヒトラーの絵画などがそれに相当する。彼は自分の表現の仕方に限界を感じ、別の方向性で欲を表現した。結果、多くの人間に届かせることが可能になる。

 

性交的創作を目指す者は運がなく自分の持ちたい才能に恵まれていないこともある。届けたいことを届かせたい形で届ける難しさ。それは例えば、着たい服と似合う服にずれが生じている場合のようなこと。技術や努力でどうにでも出来ることもあるが、どうやってもその手段が不得手であったならば、別の方向性を考慮しなければならない。西尾維新は漫画家になりたかったが、自分に絵では漫画として響かせることができないと気づき、それを得意とする他者へ託すことによって自己実現を叶えた。

 

やはり、私の創作の意識として、小説家の言葉を引くようになるのだが、乙女系小説家の嶽本野ばら氏とは、「美しいものを美しいんだよって。本当にそれを伝えたい」ことが創作の最も根源的な部分であるといったことを話したことがある。創作家は誰しも自分が見出した美しいものを持ち、それを再構築した別の美しいものも持っている。小説家のくくりでは、京極夏彦は「つまらないと感じた本でも、三人くらいは面白いと感じて出版されている。その本を面白がれなかった時点で自分はその三人に負けている」と語っていた。アンディ・ウォーホル曰く、「美しくない人間に僕は出会ったことがない」ということだ。人間は特性を持つときニュートラルから逸れ、何らかの汚点が見出されると同時に何らかの美点とも巡り会えるようになっている。ストレートに良しと思うものの他に、好みの汚点もあるだろうし好まざる美点もあるだろう。どのような形であれ、心を動かすに値するのなら、それは価値を与えられるだろう。

 

では、なぜつまらないと思われるのか。美しくないと思わせてしまうのか。私は物理的な身体性に関わらないのなら、それは皿への盛り付けの仕方が不味いのだと思っている。性交的表現を目指す創作家において、重要なのはアウトプットのやり方だろう。光るものは確かにある。存在している。面白いと思う、その心は本当だ。ただ、それを伝えようとするときに、どういった形をとるかが問題なのだ。同じような悲しみや喜びを抱えているとしても、演者によって印象が変わるように、話全体にまで効果するような強い力がある。それは経験から現れる個としての説得力である場合もあれば、想定から成される知としての技術力である場合もある。

 

ディズニーピクサーのような集合知的な芸術を完成させる場合、監督などといった総合的な立場では、広く統制をとるための技術力が必要となってくるだろう。ただそのベースをつくっている個は、修正する必要を感じさせるくらいの強烈さがなければ、案を持ってきた時点でありきたりとされてしまうのがオチである。どちらが良いとか強いとかはなく、自分のできることをやりきることがまず第一に外せない条件なのだ。上手い下手よりも、伝えたいことを伝えられているかどうかが核となる。

 

しかし、先程述べた知でも個でもない反則的な魅力も存在する。それは流行りである。伝染する共感の力はムーブメントを引き起こす。溜まりに溜まったその時々の不満への指摘は、芸術のみならず事件であっても人の心を動かしてしまう。ハンター×ハンターが長い連載を経ても古めかしく思われないのは就職意識が企業への活動ではなく資格の取得を目指さなければならなくなった若者へ、外からやってくるものと闘わなければならない若者へ、アイドルなどの選挙で競わせる喜びを知った若者へ向けられているからだ。作者は常に新しい時代の悩みを解釈し物語にしている。進撃の巨人ポプテピピックが流行るわけも、「どうせ、闘わなければならないのなら徹底的にやってやろう」「どうせ馬鹿にされるのなら馬鹿にしつつ乗りきってやろう」といったさとりと自暴自棄のような暴力の流れに合致したからだ。

 

ただ流行っている悩みを抱えている公の人類に届けたいことが即ち、自分のテーマとも限らない。ゆえに、エッセンスとして取り入れるくらいに今時の感じを持たせるというのが適切かもしれない。歴史を扱うにしろその時代にはやらなかった事件を発掘し、伝えてみたのなら、新しい価値が付与されるだろう。

 

伝えるために多少の公共性を取り入れたとしても、あらゆる美しさを布教するその心に代わりはない。世界がそれを拒むようになったとて、私は世界を美しむ。それが私の心だから。私は私の心を信じている。臭い生身の犬に、食べられぬ絵の餅に「美しさ」を見いだしているから、それを君も信じられたらいいと思っている。だから伝えていかなければならない。その心は、目に見えぬ神について語るとき、人間が言葉を尽くし姿を描くのと同じなのだ。形にすること自体が祈りとして意味を持ち、布教することは信仰として効果している。

 

そして、私が伝えたいことは生々しい本当の感情を基礎としていなければならないと思っている。こうあってほしい嘘の物語も、こうであった自分や他者の真の物語も、大いに感じた現実の葛藤があったせいで話すに足ることになったのだ。そして、誰かそれを言うかによって説得力が変わることはある。背景のないまったくの願望のみでは神話は産まれようがない。普遍的無意識の世界で似たモチーフが扱われながらも多彩な文化発展を遂げるのは、私達の欲が複雑だからであり、それこそが人間であること、個人であることの証明なのだ。

 

だから、それを創れる人間などごまんといるだろうが、君がやらなきゃ意味を持たない表現があるんだよって、全人類に気付いてほしい。