愛し沼の底

歪みかわいい集め

不細工は死んでしまえ

十五の子鹿ような小娘が好きだ。二十の美しい娘さんが好きだ。三十路の熟れ始めた女が好きだ。四十路の開いた花のヒトが好きだ。五十のいよいよ幾重にも折り重なった絹の母が好きだ。あと十年で聖女のきざしを見せる、女どもが好き。ただし、美しい女に限る。

美人の性格が良いというのも、悪いというのも本当のことだ。不細工は生きる価値がないから、美しい以外の付加価値を免罪符にする。だから性格がねじくれささくれ、ぼろのようになる。一方、生まれついて美しいものは自らの美しさに自覚がないか、ひどく意識させられるかの二択のうちに生きている。

美しいゆえの歪みは美しい故に赦される。不細工の賢さや優しさは余剰なものとして処理される。不細工はただ静かに俯いているのが一番良い生き方である。このような結論に至るほどの歪みを加えられるのが不細工という生き方なのだから。

女の子の女っぽさに憧れている。それはかわいい。美しいとはまた違うもののあはれさに情が動くことだ。性的に麗しいと心が動かされるのに近いときめきを感じることがある。見栄えについては柔らかくあたたかく白くなめらかな女ほど良いものはない。香ばしく甘いひだまりの布団の匂いの髪に顔を埋めて泣いていたい。

だからこそ、汚らわしい私ごときが触っていいようなものではないし、汚らわしい行為に巻き込めるものではない。男とどこまでも汚らわしくなろうと毎夜に呻いている。美しいではなく、かわいいヒエラルキーを示せば、女の子>私>男の子である。私が勝る存在男とだけは恐れずにどこまでも行けるような気がした。

だが、それもどうやら無理な話のようだ。わたしがいくら強く賢く若くあっても暴力という場面で絶対に男に屈服せざるをえない。臆病な自尊心が抱く夢の行き着く先は自分よりも弱い生き物で自分と近い考え方をする女の子。これでは男の子が好きなペドフィリアと同じだ。

しかし私は中途半端にかわいい。見た目と心の釣り合いは取れていない。本当に気持ち悪くてかわいそうなペドフィリアのおじさんに失礼である。わたしの醜い不幸自慢はどこまでいっても絶望するには柔らかすぎる。

悲しむには余りになまっちょろい身体がいつか道行く大車輪のトラックで八つに千切れて無慈悲な路面に叩きつけられますように。悲しむのに十分な醜さで、全ての人にあはれまれて、ようやく私は救われる。