愛し沼の底

歪みかわいい集め

寒々しい穴

アリスは穴の中をどこまでも落ちていきました。本当に暗い黒は穴の色をしているらしい。確かに写真の中の黒色は、欠け落ちた空間のように見えた。人間は皆、穴に畏怖する。ダムに開いた水の抜けていく穴、どこまでも続くトンネル、膣から子宮への抜け道……

私の胸には丸く空いた空洞がある。総てを呑み込んで吐き出さない永遠の穴だ。時々、その底のない穴に身を投げてどこまでも深く堕ちて行きたいという考えが沈んでくる。普段は意識の外にある漠然とした灰色は黒くなった時に私の心臓に落下する。魂が重くなる感覚だ。堕ちて行くときの足元の不安は普段の浮足だった幸福感とは真逆の不幸のぬかるみだ。底なしの虚しさが足を捕まえる。

徐々に息ができなくなるのは優しくて甘くて気持ちがいい。お気に入りの首飾りで自分の首筋をきつめに締めているときのよう。黒い黒い空洞の向こう側には白い星がチラチラと光っている。沢山の星が爆発するのを見ていると、とうとうバチンと圧倒的な真っ白が頭を叩く。そうして、また、綺麗になること、かわいくなること、救われることの行進に加わって、歩き始めることができる。穴の向こう側にたどり着くたびに入り口に引き戻されているのだ。

わたしは向こう側に行きたい。白い星の一つになり、あなたがたを照らしたい。

不細工は死んでしまえ

十五の子鹿ような小娘が好きだ。二十の美しい娘さんが好きだ。三十路の熟れ始めた女が好きだ。四十路の開いた花のヒトが好きだ。五十のいよいよ幾重にも折り重なった絹の母が好きだ。あと十年で聖女のきざしを見せる、女どもが好き。ただし、美しい女に限る。

美人の性格が良いというのも、悪いというのも本当のことだ。不細工は生きる価値がないから、美しい以外の付加価値を免罪符にする。だから性格がねじくれささくれ、ぼろのようになる。一方、生まれついて美しいものは自らの美しさに自覚がないか、ひどく意識させられるかの二択のうちに生きている。

美しいゆえの歪みは美しい故に赦される。不細工の賢さや優しさは余剰なものとして処理される。不細工はただ静かに俯いているのが一番良い生き方である。このような結論に至るほどの歪みを加えられるのが不細工という生き方なのだから。

女の子の女っぽさに憧れている。それはかわいい。美しいとはまた違うもののあはれさに情が動くことだ。性的に麗しいと心が動かされるのに近いときめきを感じることがある。見栄えについては柔らかくあたたかく白くなめらかな女ほど良いものはない。香ばしく甘いひだまりの布団の匂いの髪に顔を埋めて泣いていたい。

だからこそ、汚らわしい私ごときが触っていいようなものではないし、汚らわしい行為に巻き込めるものではない。男とどこまでも汚らわしくなろうと毎夜に呻いている。美しいではなく、かわいいヒエラルキーを示せば、女の子>私>男の子である。私が勝る存在男とだけは恐れずにどこまでも行けるような気がした。

だが、それもどうやら無理な話のようだ。わたしがいくら強く賢く若くあっても暴力という場面で絶対に男に屈服せざるをえない。臆病な自尊心が抱く夢の行き着く先は自分よりも弱い生き物で自分と近い考え方をする女の子。これでは男の子が好きなペドフィリアと同じだ。

しかし私は中途半端にかわいい。見た目と心の釣り合いは取れていない。本当に気持ち悪くてかわいそうなペドフィリアのおじさんに失礼である。わたしの醜い不幸自慢はどこまでいっても絶望するには柔らかすぎる。

悲しむには余りになまっちょろい身体がいつか道行く大車輪のトラックで八つに千切れて無慈悲な路面に叩きつけられますように。悲しむのに十分な醜さで、全ての人にあはれまれて、ようやく私は救われる。

姉の携帯は涙で溺死した

姉が恋人と別れた。姉は私の三倍は面倒くさい統合失調がちの女だ。たまに楽しい歌が空から降りてくるらしい。そういう自分を恥ずかしく思っていて隠そうとするものの隠しきれない人である。空気は読めないものの言葉を言葉通りに受け取る素直な性格をしていて、付き合った男のいいなりになって男がいなければ生きていけないような生き物だった。

姉は海なら回るお寿司とか水族館とか小学生の遠足のようなレジャーが好きだ。私は買い物と買い物と美味いものが大好きなので、姉のそういうところはかわいらしいと思っていた。それこそ付き合っている時間そのものを大切にしているようだから、いじらしい。

恋人さんは学生の間は質素な遊びで満足していたのだが、彼の悪い友人に引きずられてクルーザーパーティーが好きな男になってしまったらしい。そんな男が好きではない姉ははじめて自分から別れを告げたそうだ。

そんな姉の電話は涙で汚染されて壊れてしまった。悲しい涙は塩っぽいという。アイフォンも溺れるほどの涙をだれかのために流したことがない。私の涙は血となり肉となり、むくみになる。思い切り何もかも投げ出して誰かを愛することは疲れる。だが、その馬鹿みたいなことに私は憧れている。

馬鹿みたいに生きたい。全身全霊で自分のまま愛したり憎んだり、形のないものを求めてみたい。

足しげく

新しい靴を買うと靴は必ずどこかに連れて行ってくれる。外へゆくために靴はあるものだ。

ローファーが学校に一緒に行ってくれたし、似合わない街におしゃれな靴は連れ出してくれた。それは半ば攫われているような高揚感だった。他の何者が私を押し込めたとしても、靴だけは行こう行こうと手を引いていく。新しい靴があればどこまでも行ける気がする。

憧れはいつも赤い靴だ。燃える魂の色をした、目をつぶすほどの太陽の輝きをした色、マグマのように盛った熱。そのような靴を履いているときの私は無敵だ。焦がしながら焦がされながら私と靴は世界の果てまで歩いていく。新しい靴を探すために旅に出る。

私がボロになる代わりに靴は萎びて泥だらけになってくれる。誹謗や中傷や都合の悪いことを背に受けて、行けるところまでいっしょに行こうとする。そんな靴を捨てるとき、金具を剥がしてばらばらにするときに、沢山の生きたいが溢れ出す。ここまでやってきた私を、まだまだこんなものじゃないと引きちぎって新しい靴を履く。

外へ行こう。足が磨り減ってなくならないように、沢山の靴の亡骸を積み上げる。

今週のお題「私の一足」

イミテーションの本当

魂がない⇔心がない。足がない⇔顔がない 夢がない⇔今がない

人間の偽物だから、人生に目標がないのだ。

私は本当はおばさんの娘が生まれたらつけようと思っていた名前をつけてもらいました。そして、実父実母に放棄されたため、本当におばさんの娘になりました。ダリのように。思い込みを背負って生きています。

父親精子だったころに、私になるはずだった私を押しのけて産まれてきたうえに、また何かを押しのけているのです。椅子取りゲームにどうあっても勝ちたい子どもだった気がします。一番罪深いのは優しいおばさんの娘を殺してこんなに出来の悪い娘を生き延びさせてしまっていることです。おばさんは男が嫌いだから、おばさんにはきっと絶対に女の子が生まれてきて、おばさんと同じように賢くて要領がよく、大人として立派な考え方をするようになるのでしょう。

アンティーク風家具のような子どもです。本当によく生きてきた家具とは違って、塗装でつくった薄っぺらい劣化をまとっています。テーマパークのお城のように仰々しくそびえ立って、その中身は空洞で寒々しい風が吹き抜けていくのです。空洞であることを承知でごてごてと飾り立てた外装やそれらしい云われを書き乱した看板を見せびらかしている。惨めな生き物です。

私がいつか本当になるときはくるのでしょうか。本当に愛し愛され、家族というコミュニティを普通にわたっていける日はいつでしょうか。明日にもすべてが崩れ落ちてしまいそうに思うのでいつも今日という日が過ぎないように祈るのに、眠れば明日がやってきてしまうのです。私を私として必要としてくれる人間がいないから、私はずうっとまがいもののまま、透明な幽霊のまま。

生きながら死ぬくらいなら死にながら生きていこうと思います。私の城を建てましょう。私だけしか住む人がない。入ることのできない。高い高い塔の上から「みんなゴミみたいに見える」と言いながら、普通がやってくるのを口をポッカリ開けて待っているのです。偽物を思い込みで本当にする。まず私が私と私のまわりを本当にしてあげるところから始めようと思います。

通院記録 1

私が何か言うと先生のキーボードが鳴る。

 

『神様になれないのならダニとして生きていくしかない』

『人に認識されないと私はここにいるとは言えない』

『献身の頂点にいる人が絶望してしまうなら人間は正しくなることを諦めなくてはならない』

 

初めは勢いも良かったのにだんだんと元気がなくなっていく。最後には面白くもない話を繰り返し繰り返し、音もなくなっていく。考えながら話すことは得意ではない。考えを順序立てるというのは苦手だ。私の中から、ねばついて熱い気持ちが流れていく。それを止めることも流すこともできない。喉がぺたぺたに乾いていった。

 

「気持ちいいこと」が文字にできている躁期の私は調子が良いことばかりを言うし、まじめに物事に向き合わない。人を苛立たせたり揺さぶるのが上手い時期と言い換えても良い。今日はあまり考えないままに病院に来ていた。

 

「きみは、なりたいものがわからないみたいだから。まず自分で、自分のために生きた方がいいのではないでしょうか」

 

たしかにその通りで私はいつも誰かのせいにしたい、私は絶対悪くない。言い訳の蛆虫だ。図星にたじろいでしまう。ああ、だんだんと先生がつまらねえなあという顔をしてきた。こういう顔をしている人を放っておくことはできない。頭が白くなるほどおっかない。私は足りない頭で考えた。ぐるぐるしている時は部屋に飾られているらんまのシャンプーちゃんのお人形を眺めている。

 

エビリファイは凄いですね。一人でいても人間みたいな情緒で生きていけるのは初めてですよ。さすが大塚製薬。だいたいこういうお薬はアメリカから輸入されるものではありませんか。それなのに日本で開発されて世界に羽ばたいて、そして、私を助けてくれている。日本もバカにしたものじゃあないと、未来に期待ができる気がして幸せです』

 

「そうだね。ファンレターみたいなのを書けばいいと思いますよ。お薬をつくってる人も多分うれしいだろうと思います。あんまり誰が作っているなんてことを気にされないものですから」

 

私はどういう形でもわたしの手元にやってくるものは、どうやってつくられたのか気になる。誰かが運んで、誰かが作って、誰かが育てた。人の沢山の手を感じるから好きだ。私を思って作ったものでなくても、作る過程でそれにかけられている熱が得られる気がするからだ。

 

何者でもない幽霊の私が大事にされている感じがすると生きていると思える。看病されて食べさせてもらうプリンや着せてもらうパジャマと同じ喜びの味がする。これが世界に愛されるための消費行動なのだ。

 

家族からは覚せい剤と呼ばれている元気のみなもとエビリファイちゃんとルネスタを貰って帰宅した。