愛し沼の底

歪みかわいい集め

人の悲しみをお前の悲しみで測ってくれるなよ

心が疲れてしまったときに、人は部屋の片づけをすれば良いだとか、自分の動き方に問題があるだとか、自由に、口々に物を言う。けれど、それが何のためになろうか。金を寄越してくれるわけでもあるまいし、慰めに寄り添ってくれるわけでもあるまい。そして、何かをしてくれることを望んでいるわけでもない。

 

悲しみが不十分だから更に深く奥底で十分に悲しむために悲しんでいるのだ。膝をかかえて悲しみつくして人生を終えてしまうのなら、それはそれでその人の人生。人生を溝に捨てる自由がある。もちろん歯を食いしばって血の涙を流しながら這いつくばるのも、個人の自由だ。しかし一方でその悲しみには何の意味もない。自分自身で意味があったのだと認めやらない限り「今まで無駄にしてきた時間を取り戻そう」と自己啓発セミナーで言われてしまう程度のものだ。悲しみに価値はない。しかし、喜びに使った時間も悲しみに使った時間も、人が生きていくうちで消費することには違いはないのに、悲しみばかり価値がないと言われる。生き急ぎ、思い悩み、嘆く。とはいえ、その嘆きすら意味があると見なしさえすれば意味のあるものになり、そうでなければ役に立たないゴミである。

 

人は自分がなぜこんなにも悲しいのだろうと思うことはあれど、なぜこんなにも楽しいのだろうと疑問に持ち不安になることはない。それはとても幸せの基準が明白で美しいと思う。私の場合、どうしようもなく、朝から晩まで喜びで満ち溢れて、体が振り回されている日がある。吐くまで食べたい、何もなくなるまで買いたい。衝動が第一で、理性はその下に押しつぶされてしまう。そして、なぜこんなにも悲しいか思い悩まなくていい幸福がある。自分の悲しみの理由だけを考え抜いて生きているものだから、ただ悲しむことに専念していられるのだ。

 

沈黙も騒がしさもその人だけのものだ。ところが世の中には沈黙すら私だけのものにしてくれない、おせっかいが。口先ばかりのおせっかいが。はたまた自分はこんなにも頑張っているのに不平等だと嘆くお可哀想な人が、この世には沢山いる。嘆くことを許されないことをまた嘆けばよい。嘆くことに関して人生はきりがない。嘆くために我々は生きることを許されている。

 

そうだ。嘆き悲しむことは、気持ちが良い。そうでなければ何故あんなにも涙が熱く塩気のあるように出来ているか。汗や涙を流す、嘔吐する、排泄する。よどみ、濁りを体の外に押しやる。まき散らす。よろこび。自分だけにしかわからない御大層で高尚な悩みを胸の中にしんしんと降り積もらせ、痛みの中に身を横たえる。すべて流されて出ていくものたちを、押しとどめる。幸せ。

 

不自由をよろこぶ自由と、自由を嘆く不自由の、その二つの心を動かすものだけを、私は抱きしめていたいのだ。ああ今日もうれしいとかなしいが手をつないで同じところを楽しそうに回り続けている。一秒に三回も気持ちが変わる。心が動く。人間が美しい。人間は醜い。これだから人間はやめられない。

おねえちゃん大好き〜姉と私が育児放棄されていた時のこと

姉と私の生活の思い出。

 

私の姉はちょっと普通ではないかもしれない。姉は幸せな歌がどこかから聞こえたり、壁がぐにゃぐにゃ歪んで見えることがある。そして、パスタをビニール袋のままに茹でるような人だ。それから性欲旺盛で男切れをすると首を切ろうとするところもある。見捨てられたくないくせに、何度も人を試す。

 

そんな姉に救われて私は生きてこられた。ネグレクトを受けていた家庭から二人で逃げた。私が生きていられるのも姉のおかげだ。生きていても歯の何本か足の指の何本かはぼろぼろになっていただろう。磨かれない歯、サイズが変わっても履きっぱなしの靴。ただそこにいるだけの生き物としての生活は、文字通り必死だった。

 

今もまだ覚えている。今は無き貿易センタービルの明かりが消えたら寝ることにしていたこと。両親が帰ってこないものだから、出ていこうとして守衛さんに止められたこと。あのときに二人が捕まってしまえば良かったのにと今でも悔やんでならない。

いっしょに甘酸っぱくなってきた寿司を冷蔵庫から出して食べた。二人で布団に包まってテレビを見た。言葉はわからないままに絵が面白くて笑っていた。姉を私の母親代わりのように思っていたし、姉も二人きりのときは子供のようにかわいがっていたのだと思う。小さなこどもだけの白い部屋。

 

だが、身の安全が確かなところに引き取られて、姉も自分だけが愛されたいと思うようになる。それは当たり前だ。赤ん坊のころに手に入るはずだったものが私たちには無かった。姉は母親の特別な愛情を欲しがったし、それが無理なら男の興味を引きたがった。生物学的母親の真似事だった。それをやるのにわたしは邪魔だった。姉は小さなやもめだった。私は姉が持っているものは何でも欲しかった。しかし姉は奪われることを恐れる。そういう悪循環の中でお互いがお互いを愛し憎み妬み羨みあった。

 

私は子供を演じるのが上手かった。大人の望むようなかわいらしさというのを知っていたからだ。まるで子役のように、できることもできないふりをし、できないことをはにかむように誇った。姉は人の気持ちがわからない人で私のそういうところを気持ち悪いと思っていた。それでもたった一人の姉妹だからと、最後に見捨てたりはせず、ただ気持ち悪いものをやっかみつつ、かわいがっていた。

 

その一つが姉の実験的料理教室だった。先に載せている、挑戦的飲み物の数々や、うじが湧いたお茶を飲ませること。普通の人間ならそれを本当に飲ませようとはしない。普通の人間ならそれを本当に飲もうとはしない。けれども、まともな大人を見たことのない私たちのごっこ遊びはいつだって本当だった。実際、そのおかげで生き延びていたことだ。姉のやることは絶対だった。吐き戻したり、美味しくないと思うのは私がとてつもなく悪い子だからだと思っていた。一方で姉も悪気は無かった。ただ私のことを試していただけなのだ。本当にちゃんと言うことをきくいい子か、自分を絶対に疑わないかを遊びの中で確かめていた。

 

姉は私にとって宇宙であり母だったから私はどんなことも受け入れられた。邪魔にされて蹴られ殴られてもついて歩いた。鼻血をたらしてしくしくと、ついて歩いた。姉が大好きだった。唯一、どんなことがあっても私を見限らない相手で、私が誰かを演じずに気持ち悪いままでいてもいらないとは言わないと信じられた相手だったからだ。

 

愛というのは呪いで、好きは絶望だ。

 

今でも私は姉を愛している。母親を男に取られるのが嫌で泣いている子供のように姉を想う。そして寂しい時にだけ子供を可愛がる母親によりいっそう執着する子供のように、姉が私だけのものだったなら良いと、呪いをかける。

 

私は姉を愛している。呪い的に。

きっと姉は私が好きだろう。絶望的に。

 

 

マンディアルグ「仔羊の血」~あたしは血まみれの子羊よ

マルスリーヌ・カインは被虐の少女として至高だ。アルグの物語には心理描写がない。ただ淡々と残酷な現実が波のように押し迫ってくる。

 

『ピンク色の子羊さん、青い子羊さん、あたしの護衛になってちょうだい……大きな赤い子羊さん……あたしを助けて……青白い子羊さん、疫病みたいな黄色い子羊さん、あなたの毒をあたしに注いで……あたしを殺して』

 

マルスリーヌは識別のために塗られていた塗料を、いまわのおめかしのように思っていた。マルスリーヌは男に凌辱されながらかわいそうな羊たちに呻き嘆く。本、それ自体からまるで絵のように放射される空気を感じるのが、アルグの文章だ。

 

あらすじ

マルスリーヌ・カイン。いうなれば灰と、砂と、血を混ぜ合わせたような女だった』

マルスリーヌは唯一の友人だったウサギを親から子羊の肉として食べさせられ自暴自棄になる。夜には家畜小屋で黒人の屠畜屋に羊の群れの上で陵辱された。その後、男が首をつり死ぬのを眺め、彼に罪を被せ両親を殺害。そしてマルスリーヌは引き取られた修道院で語る。

「あたしは血まみれの子羊よ」

孤児たちは彼女の毛皮と流血の素晴らしい物語に耳を傾けるのであった。

 

はっきり言って良いすけべ本で、羊小屋で羊にのせられて虱の痒さに尿を漏らすという図はすさまじく劣情を湧きたててくれる。良いものだ。さておき、「子羊の血」の素晴らしいところはマルスリーヌの少女と女の間の危うさの魅力というのが大半をしめているが、それと対となる男の動物と人間の境目の鋭い魅力についても語るべきだろう。生き物の皮をはぐ仕事というのは生き物を丸裸にして野ざらしにする荒っぽい野生味がある。あまりに動物的な人間による動物的な行為。それまでマルスリーヌがウサギの皮膚越しに感じていた温かさを沸騰させたような圧倒的生と性の濁流を男は持っている。

 

マルスリーヌが大人になるために必要な残酷が受難の数々である。少女が大人になるためには血と傷みが必要だ。そもそも、マルスリーヌにウサギを食べさせた両親の思惑というのは、いい歳にもなってウサギにだけ興味を持っているマルスリーヌを成長させようとしたことだ。マルスリーヌは確かに大人になったのだろう。さなぎが蝶になるようにどろどろの塊から羽化したのだろう。一度、自らの境界を超える必要があった。そのためにマルスリーヌは自分で血を流す道を選んだのだ。もう誰にも頼らない決意をして、汚らわしさを抱えて生きていくマルスリーヌは美しい。

 

マンディアルグ「仔羊の血」黒い美術館より

 

 

あなたの塵は私の宝物

私は物が捨てられない。特に人から貰ったものが捨てられない。私の性質とは違う、雑音が溜まっていく。理想で塗り固めた部屋の中に雑多な思いが蓄積する。それは地方キャラクターの土産物であったり、ノベルティグッズの趣味でもないタオルであったり、私にとって関わり合いの無さそうなものばかりだ。

 
他人の気持ちの名残が染み付いているような気がするので私はそういう雑音を封印するための箱を用意する。物の性質の壁なしに、何でもそこへ放り込む。本でも、ストラップでも、手紙でも、どうだっていい。持ち上げると箱はざこざこ音をたてる。いっそのこと、この箱ごとどこかへやってしまえたらいいのにと、いつも思うのだけれど、ひょんな時に思い出しては中を眺めている。
 
人の優しさや思いやりの必要性は普段あまり感じない。むしろ意地を張っていらないもののようのしている。つまり、私はそういうものが大切なのだ。あればあるだけ欲しくなる。強欲のうねり。箱の中で愛が叫んでいる。一つ一つはほんの小さなささやき声でも、重さとして煩さとして、私に主張する。
 
いまここにある愛。いまここにある興味。いまここにある、私が生きていていい理由。
 
神様がいつか私の体を返すように言っていても、この箱だけは私と燃えて一つになる。

古井由吉「杳子」と姉と私の愚かな病

「杳子」は1971年の芥川賞を得た古井由吉の小説だ。

 

古井由吉は、内向の世代と呼ばれている。内向の世代は文芸評論家の小田切秀雄が初めて用いた言葉で「60年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感から政治的イデオロギーから距離をおきはじめた(当時の)作家や評論家」と否定的な意味で使った。主に自らの実存や在り方を内省的に模索したとされる。つまり、引きこもった世界感を持っていると揶揄されていた。

 

確かに心のうちの幻想のなかで展開される物語に、影響や意味を持たせるといったことは難しい。だが、私は人生に意味といったものは後付けされるように、物語にも意味は後づけされるのではないだろうかと思っている。「杳子」は、まるで私がこれから行く先の物語のようだった。ただそれだけのことで、わたしという小さな枠組みの宇宙の中では意味のあるものになる。

 

どこか変わった所のある女。そして、それを支える男というのはお気に入りのアンナ・カヴァンスリップストリーム的作風ともつながりがあるように感じられる。両者ともにカフカの影響があり、奇妙さというのはそこからもやってきている。「スリップストリーム」という言葉は、サイバーパンク作家のブルース・スターリングが、作り出した言葉で「不思議さの小説」とも言われている。「見慣れた光景をいつもと違う角度から眺めたような感覚」を誘発するものだ。幻想の革を一枚まとったスリップストリーム小説には、自己の投影により更に深く物語を理解できる側面がある。内向は発信こそ薄いが、自分を振り返ってみるのに最適な材料となる。一般の小説ならば定められた設定があるはずだが、カヴァンの「氷」、古井の「杳子」にはそれがない。登場人物の性格は道徳や倫理で評価され表現されたりはせず、仕草や言葉の一つ一つを読み手に教え、解釈はゆだねられているように描写される。そこの確かにあるものが、ただそこにあるように、描かれることの美しさがある。

 

あらすじ

二十を少し超えたばかりの、まだ固まりきっていない若い男は、山登りの最中で

深い谷底に一人で坐っている女、杳子と出会う。杳子は頂上から降りて来て、岩の上に座って休憩をしようとした時、「まわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて」一歩も動けなくなってしまったようだ。そばに寄って来た男に杳子は、麓まで連れて行ってくれるよう頼んだ。杳子を連れて彼は下山していたが吊り橋の前でまた杳子は蹲る。

「こんな橋を一人で渡れないようじゃ、もう二度と山に来れないよ」

「もう来ません」と杳子は地面を見つめてつぶやいた。

「それどころか、自信を失って、街の中さえ満足に歩けなくなるから……」

女を助けた男だったが、男自身も良い状況にあったわけではなかった。夏休みからずっと家から出ないひきこもりの状況だったのである。男はもしかすると女は自殺をしようとしていたのではないか、と思う。

谷底の出来事から、3ヶ月後。2人は駅のホームで偶然にも再会する。同じ年の学生だと分かり、男と杳子は毎週待ち合わせて会うことを始めた。杳子は精神を病んでいたが、男が谷底で助けてから「あれから、何もかも、とても静かに見えるようになりました。目にしっくりなじんで、とてもきれい。きれいすぎて、もったいないみたい」になった。しかし杳子は相変わらず、いつもの席が空いていなければ喫茶店で座ることも戸惑うような神経症的気質を抱えていた。男は杳子の気質を訓練して日常生活をまともに送れるようにしようとした。杳子もまたそれを望んだ。やがて二人は男女の関係を結ぶ。それからはしばらく会わなかったが、コンプレックスの克服のために杳子より更に病状のひどい姉に会いに行くことにし、杳子がまともになるための努力を男は支えていくのである……

 

私が、まるで私の物語のようだと思った部分を引用する。

 

「あなた、子供、きらい……」

「あたしは、きらいよ。自分みたいな人間がもう一人、どこかを歩いているのを思い浮かべると、鳥肌が立つ。地下牢にでも閉じ込めてやりたいわ」

 

ああ、古井先生の文章は私を見ているように鋭く、私を知らないように美しい。

 

「あたし、病気なんかじゃないわ」

「病気の中へ、坐り込んでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいにふるえて、それで生きていることを感じているの。お姉さんみたいになりたくない」

「姉さんは健康になったのだろう。今では一家の主婦で、二児の母親じゃないか」

「それが厭なの。昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ」

「それでいいんだよ。健康になって病気のことを忘れるのは、しかたのないことじゃないか」

「病気の中にうずくまりこむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ」

 

 

私にも杳子のような姉がいる。私も杳子のようだ。姉は境界例的性格を持つ統合失調症で私は躁うつ気質の発達障害だ。それなりの歪な生い立ちであったから絶対に子供なんて産むわけにはいかない。わたしのような子を増やすのはあまりに無責任だと思っている。逆に姉は幸福な家庭像に憧れていて、それを叶えるために必死になっている。子供を持てば、しあわせになるとか救われるとか、そういうものがそこにあるように思っているようだった。私は、この杳子の気持ちがよくわかる。あまりにもわかりすぎる。刺さるような雨の音、耳を引きちぎるような子供の声、人が気にしないほんの些細なことが私たちには大事に感じる。誰かと心を通わせていても、不安な輪郭の感覚に、ぬくもりの伝わらなさに混乱と孤独にひりひりすること。病院に行くと自分が失われてしまうようで恐ろしいこと。

 

わたし、杳子のことを知っているよ。杳子もきっと私のことを知っている。そして私を好ましく思う人間についても、やさしさをくれる人間の狡さもわかっているよ。

 

「杳子」は精神を病む女子大生杳子に同年の男子大学生が献身的に庇護する話のように解釈されるかもしれない。主人公の杳子に対しての態度は優しく手厚く支えているような様子で描かれている。いわゆる優しい愛のものがたりのようだ。しかし精神を病んでいる娘を好む男は、多くの場合、劣等感を抱えていることへの裏返しとして、更に自分よりも弱い存在を求めているという心性を持っている。この主人公はそういった危うさを持ちながらも、不可解な男と女の中で生きざるを得ないことを知り、自分と他者を同一のもののように認識する。自分の中にあるものを杳子の中に見て。杳子と共に生きようとする。

 

いつか出会う誰か、どうか私の中にあなたを見つけてください。私もきっとあなたの中に私を見つけます。

信じたさから、濁る心根

女性に「僕たちは〜」と叫ばせて、男性に「アタシの気持ち〜」とぼやかせる。私の嫌悪する歌たちのことから話します。

 
共感できる気持ちいい言葉を異性の口から聞きたいという願いが込められいる。自らの気持ちを歌っているのではなく、歌わせられているという事実に気づいていない。気づかないふりをして聞き続けるのは心地の良いことだ。世界に自分は一人ではないような気がする。耳からやってくる沢山の声に励まされ癒される。自分の隣には多くの理解者が在ると信じる。
 
しかし、それは幻想で「自分だけの応援者たち」という思い込みをしているにすぎない。まるで自分のような人間が本当には自分の隣にいる人で、きらきらした人には永遠に理解されず、きらきらした人の心もわからないままに終わっていく。僕たち私たちが真に輝いている者ならば、そういった人たちに理解されたいと思う必要はないのだ。理解されたいと考え始めた時点で私たちは負け劣りを感じ、気持ちはやすりがけされ、輝きを失う。
 
わかられたいと思わなくて良いような逞しい人間は美しい。孤独をただ「一人である」と受け入れて、自分を信じられる人は強い。寄り添い合わなければ生きていけない人間より現実と限界をわかっている。その段階にある人間のいう「案外すてたものじゃない人間たちのこと」が、心地よく感じる。私の感性はどれだけ世の中が寂しいものでも最後に人が残っているような世界だ。そして、またそういう幻想を植え付けるように歌う人がいる。
 
自分の都合の良い世界のように見える眼鏡の役目をする経典たちがなければ人は生きられない。歪みある世界のあり方が本当のもののように思うときに、正しい世界のあり方は気持ちの悪いぐにゃぐにゃの偽物に感じられる。歌だけが僕たちとアタシの本当で、聖書のように繰り返し読み聞きする。時には書き写し覚える。
 
信じることが良いことだと言われるけれど、強く頑なになった考えは、自分だけを守り動けないようにする。何事も本当のものはない。疑心暗鬼で世界を守ろう。

有償交換の愛と無償生産の愛

見返りを求めない関わりはない。己のごとく、他者を愛することしかできない。二つで一つのような自分と地続きの物だけを心に入れられる。しかし生きている以上、赤ん坊のままでいられない。立って歩き、排泄を自分で行い、物心がつくころには人間の孤独が始まる。親は子供のものでなくなるように子供もまら親のものではなくなる。

 
無償の愛は壮大な思い違いの生むものだ。執着や意地などといったものたちを叙情的に飾り立てているにすぎない。人間は自分自身の他には愛することはできないのだ。美しい愛は自己愛ただ一つのみである。
 
私は自己愛の深い人が好きだ。その懐に潜り込み、自分をなくしてしまえたのなら、きっとその人は私を深く深く愛するだろう。アンコウの雄のように腹の一部として取り込まれて生きる。自分を愛せない自分を捨てて、流されていくのはとても気持ちが良いことに違いない。
 
店員や教師や友人を、金や労力で買う人の数を涙の数と同じにしなくても良くなるのだ。勘違いではない本当の、純度の高い愛の中で生きていける。
 
有償交換の愛と無償生産の愛。
 
自分自身で生み出せるものがないなら、他人の腹に寄生して生きよう。自己愛だけは最後まで残るものだから、私が対象に利益を与え続けられるのなら、愛は滅びない。