愛し沼の底

歪みかわいいコレクション

神なるもののオナニーを軒下から眺めていたい

私にとっての神様とは何なのだ。恋心の矛先であり、憧れの捌け口であり、絶望的に玉砕したものの、未だになりたい姿だったのかもしれない。神は生まれつきの素質などに多少めぐまれながら、それでも自分のことを決して優れているなどとは思わない。

 

裏切り、絶望。虚しさが影となり、浮き彫りに晒されるのは輝きだ。目を刺す、稲妻のような嵐のような、針のような鋭さ。暗闇の理由が、せめて寂しさだったのなら優しい人の声がその魂を慰める。しかし、神の絶望は虚無に起因する。酸欠を意識化することによって、天地創造を成す箱庭職人。彼らは、いつまでも一人で自分を穴埋めしている。そのことでしか埋まらない、まっしろな空洞に怒りを燃やす。

 

対して、寂しいものの空洞は黒い水玉みたいにポカリ、ポカリと都度払いである。確信的に実在する空腹に嘆いている。だが、ああ、虚しさはうず高く積み上げられて決壊する。不安は張り詰めていく風船を眺めるように、落ち着きを奪い去る。

 

そんな風に生きていくのは、もがけどもコップの外にいけない蠅の王さまのように見える。悲しいと言うにはあまりにエモーショナルに傾いた、他人事。私はそんな風にならなくて良かった。あまりにも違いすぎる。だから、幸せかもしれない。おそらく、幸福なのだろうと、流れ着いたのはセーフティゾーンという垣根だ。崇めながらも冷静に差別し、いよいよ輝きのない視界にこうこうと輝ける神。代理的受難のただなかの犠牲。身を寄せ合ったにすぎぬ、暗がりの温もりに足りないものを、閉じ込めるようにして評価を下さずにいられない。

 

この貧しく土臭い世界という檻で、一生をオナニーで終わる。それを評価するのは、ただ本当に関わりない人々の偏見でしかない。知ってか知らずか、どちらでも良いのか。いや、神は泳ぎ続けなければ息が出来ないのだから、ただそれをするだけ。いつか殺してくれと不干渉に呪い続け、出来上がった楽園は美しいのだ。只人は、普通という心地よさに居座りたい狡さで、なるべくずっと生きながらえていてくれなければ困る現人神を視姦する。

 

創作活動は排泄か性交か?

創作活動は排泄か性交かという話が盛り上がっていた。自分の個としての部分を露見させるとき、必ず付きまとってくる話題だろう。ここでは、言葉および物語を主として扱う私の意見を述べておく。

 

創作活動が性交と排泄に例えられる理由はどちらもインプットしたものをアウトプットする行為であるからだろう。その違いとは恐らく過程における再構築について、どう意識しているかによって変わる。排泄であるか性交であるか意味付けられるのは目的意識の差ではなかろうか。

 

快楽がそれらを分かつのだという考え方も一理あるかもしれないが、性交の場合であっても自分だけが気持ちよいような一方的に放つ欲を持つ場合もある。排泄のような性交が行われることは現実においてもしばしばあることだ。何を持って性交とするのか? やはり本来の意味での性交は妊娠を含むのだろう。相手に何かを残せているか、否か。しかし、大抵の創作の場合、生身の性交とは違い相手の同意がなければ、子をなすことはできない。興味を持たれなければ、絶たれてしまう。快楽として無料で消費されるのではなく、時間や金をかけてまで感情に残ろうとするのなら、作品はシビアな承認競争の最中にある。

 

何かを創ることそれ自体の心地よさにより物を創るような人間の作品が、例え排泄的であろうとも観測するものに価値を与えられれば、それは性交に至る。アウトサイダーアートとして見なされるヘンリー・ダーカーの作品は本人の意向としては個人で慈しむべき妄想としてつくられたが、それを良しとした人により拡められた。逆に、性交的な創作が自慰的でしかなくなってしまったケースも存在する。かのヒトラーの絵画などがそれに相当する。彼は自分の表現の仕方に限界を感じ、別の方向性で欲を表現した。結果、多くの人間に届かせることが可能になる。

 

性交的創作を目指す者は運がなく自分の持ちたい才能に恵まれていないこともある。届けたいことを届かせたい形で届ける難しさ。それは例えば、着たい服と似合う服にずれが生じている場合のようなこと。技術や努力でどうにでも出来ることもあるが、どうやってもその手段が不得手であったならば、別の方向性を考慮しなければならない。西尾維新は漫画家になりたかったが、自分に絵では漫画として響かせることができないと気づき、それを得意とする他者へ託すことによって自己実現を叶えた。

 

やはり、私の創作の意識として、小説家の言葉を引くようになるのだが、乙女系小説家の嶽本野ばら氏とは、「美しいものを美しいんだよって。本当にそれを伝えたい」ことが創作の最も根源的な部分であるといったことを話したことがある。創作家は誰しも自分が見出した美しいものを持ち、それを再構築した別の美しいものも持っている。小説家のくくりでは、京極夏彦は「つまらないと感じた本でも、三人くらいは面白いと感じて出版されている。その本を面白がれなかった時点で自分はその三人に負けている」と語っていた。アンディ・ウォーホル曰く、「美しくない人間に僕は出会ったことがない」ということだ。人間は特性を持つときニュートラルから逸れ、何らかの汚点が見出されると同時に何らかの美点とも巡り会えるようになっている。ストレートに良しと思うものの他に、好みの汚点もあるだろうし好まざる美点もあるだろう。どのような形であれ、心を動かすに値するのなら、それは価値を与えられるだろう。

 

では、なぜつまらないと思われるのか。美しくないと思わせてしまうのか。私は物理的な身体性に関わらないのなら、それは皿への盛り付けの仕方が不味いのだと思っている。性交的表現を目指す創作家において、重要なのはアウトプットのやり方だろう。光るものは確かにある。存在している。面白いと思う、その心は本当だ。ただ、それを伝えようとするときに、どういった形をとるかが問題なのだ。同じような悲しみや喜びを抱えているとしても、演者によって印象が変わるように、話全体にまで効果するような強い力がある。それは経験から現れる個としての説得力である場合もあれば、想定から成される知としての技術力である場合もある。

 

ディズニーピクサーのような集合知的な芸術を完成させる場合、監督などといった総合的な立場では、広く統制をとるための技術力が必要となってくるだろう。ただそのベースをつくっている個は、修正する必要を感じさせるくらいの強烈さがなければ、案を持ってきた時点でありきたりとされてしまうのがオチである。どちらが良いとか強いとかはなく、自分のできることをやりきることがまず第一に外せない条件なのだ。上手い下手よりも、伝えたいことを伝えられているかどうかが核となる。

 

しかし、先程述べた知でも個でもない反則的な魅力も存在する。それは流行りである。伝染する共感の力はムーブメントを引き起こす。溜まりに溜まったその時々の不満への指摘は、芸術のみならず事件であっても人の心を動かしてしまう。ハンター×ハンターが長い連載を経ても古めかしく思われないのは就職意識が企業への活動ではなく資格の取得を目指さなければならなくなった若者へ、外からやってくるものと闘わなければならない若者へ、アイドルなどの選挙で競わせる喜びを知った若者へ向けられているからだ。作者は常に新しい時代の悩みを解釈し物語にしている。進撃の巨人ポプテピピックが流行るわけも、「どうせ、闘わなければならないのなら徹底的にやってやろう」「どうせ馬鹿にされるのなら馬鹿にしつつ乗りきってやろう」といったさとりと自暴自棄のような暴力の流れに合致したからだ。

 

ただ流行っている悩みを抱えている公の人類に届けたいことが即ち、自分のテーマとも限らない。ゆえに、エッセンスとして取り入れるくらいに今時の感じを持たせるというのが適切かもしれない。歴史を扱うにしろその時代にはやらなかった事件を発掘し、伝えてみたのなら、新しい価値が付与されるだろう。

 

伝えるために多少の公共性を取り入れたとしても、あらゆる美しさを布教するその心に代わりはない。世界がそれを拒むようになったとて、私は世界を美しむ。それが私の心だから。私は私の心を信じている。臭い生身の犬に、食べられぬ絵の餅に「美しさ」を見いだしているから、それを君も信じられたらいいと思っている。だから伝えていかなければならない。その心は、目に見えぬ神について語るとき、人間が言葉を尽くし姿を描くのと同じなのだ。形にすること自体が祈りとして意味を持ち、布教することは信仰として効果している。

 

そして、私が伝えたいことは生々しい本当の感情を基礎としていなければならないと思っている。こうあってほしい嘘の物語も、こうであった自分や他者の真の物語も、大いに感じた現実の葛藤があったせいで話すに足ることになったのだ。そして、誰かそれを言うかによって説得力が変わることはある。背景のないまったくの願望のみでは神話は産まれようがない。普遍的無意識の世界で似たモチーフが扱われながらも多彩な文化発展を遂げるのは、私達の欲が複雑だからであり、それこそが人間であること、個人であることの証明なのだ。

 

だから、それを創れる人間などごまんといるだろうが、君がやらなきゃ意味を持たない表現があるんだよって、全人類に気付いてほしい。

猫の居る部屋

生活の臭いがそこかしこに漂っていた

黴臭い部屋干しのタオルがすだれのようにかかっている

 

初めて訪れた部屋なのに生活は計り知れる程度の

つまらない男に身を任せた

その行為は計り知れる程度の面白みしか得られなかった

安板のベッドはきいきい鳴いた

 

男の部屋には食パンのような猫が居た

それは私よりも遥かにその男の内部に住んでいるのだろう

あたたかで愛に満ちているようだった

初対面の相手のうめき声におろおろ歩く優しさがあった

 

眠れぬ私は猫に詩を読んだ

詩を読まぬ男に飼われる猫へ

産まれてはじめて詩を聞かせてやった

猫の体温は人より高いらしい

 

猫は男でも女でもかまわず

暖かな部屋と食べるものと

自分をかまう手があればそれで良いようだった

 

傍に眠る男の寝息よりも、ずっと静かな声で

それに似つかわしくない強い言葉を吐き出した

しかし猫には自分をなだめる声として届いている

 

猫の毛の先から香ばしい匂いが漂うほど

虚無がめりめりと押し広げられていく

生きてさえいればいい生き物になれないから

私は今日も詩を読んでいると悟っても

なお裸の人肌に猫の毛がからみついてくる

 

「お前の心の臓をくりぬいて一人ということを知れば、

あの男は詩の一つでも詠うようになるのかしらね」

 

それとも他に拾う猫を探すのだろうか

ただ生きてさえいればいい

生き物の心はわからない

九割は空気、一割が白砂糖

九割は空気、一割が白砂糖

 

夜店で並べられている綿菓子とそれはよく似ている

奇麗な袋の中に入道雲がぱんぱんに詰まっているようで

みんな思わず汗ばんだ小銭を投げてしまう

もっと大切な物を買える機会を差し出して

ぎらぎらまなこで手を伸ばす

けれど綿菓子は殆ど空気で出来ているし

その上のこりかすは下賤な白砂糖を固めただけ

眺めてみているとき 金を払うとき 手に入れたとき

その三つは幸せな気持ちになるだろう

しかし空気に触れた瞬間に綿菓子はしぼみ始める

現実に汚染されるように縮こまって見るも無残に

それなら綿菓子は手に取らず眺めているほうがいい

多分、欲望をあおられている酔いのこと

し × × せ と呼んでいるだけで

これ以上なく満ち足りるほどのものは

誰も売ってはくれないさ

誰にも盗られないよう食べてしまうに違いない

それは後味にも残らず不思議と身体に染み込むのさ

じゃりりと歯の溝にはさまって

ずっと甘い傷みたいに主張したりしない

あと幾つ ぼくは綿菓子買えるだろう

夜店で並べられている綿菓子とそれはよく似ている

四文字のそれにひどくよく似ている

ぼくが食べたことのない それのことを知らないから

予想に過ぎないのだけれど 似ているのではないかと思った

マンディアルグ「仔羊の血」~あたしは血まみれの子羊よ

マルスリーヌ・カインは被虐の少女として至高だ。アルグの物語には心理描写がない。ただ淡々と残酷な現実が波のように押し迫ってくる。

 

『ピンク色の子羊さん、青い子羊さん、あたしの護衛になってちょうだい……大きな赤い子羊さん……あたしを助けて……青白い子羊さん、疫病みたいな黄色い子羊さん、あなたの毒をあたしに注いで……あたしを殺して』

 

マルスリーヌは識別のために塗られていた塗料を、いまわのおめかしのように思っていた。マルスリーヌは男に凌辱されながらかわいそうな羊たちに呻き嘆く。本、それ自体からまるで絵のように放射される空気を感じるのが、アルグの文章だ。

 

あらすじ

マルスリーヌ・カイン。いうなれば灰と、砂と、血を混ぜ合わせたような女だった』

マルスリーヌは唯一の友人だったウサギを親から子羊の肉として食べさせられ自暴自棄になる。夜には家畜小屋で黒人の屠畜屋に羊の群れの上で陵辱された。その後、男が首をつり死ぬのを眺め、彼に罪を被せ両親を殺害。そしてマルスリーヌは引き取られた修道院で語る。

「あたしは血まみれの子羊よ」

孤児たちは彼女の毛皮と流血の素晴らしい物語に耳を傾けるのであった。

 

はっきり言って良いすけべ本で、羊小屋で羊にのせられて虱の痒さに尿を漏らすという図はすさまじく劣情を湧きたててくれる。良いものだ。さておき、「子羊の血」の素晴らしいところはマルスリーヌの少女と女の間の危うさの魅力というのが大半をしめているが、それと対となる男の動物と人間の境目の鋭い魅力についても語るべきだろう。生き物の皮をはぐ仕事というのは生き物を丸裸にして野ざらしにする荒っぽい野生味がある。あまりに動物的な人間による動物的な行為。それまでマルスリーヌがウサギの皮膚越しに感じていた温かさを沸騰させたような圧倒的生と性の濁流を男は持っている。

 

マルスリーヌが大人になるために必要な残酷が受難の数々である。少女が大人になるためには血と傷みが必要だ。そもそも、マルスリーヌにウサギを食べさせた両親の思惑というのは、いい歳にもなってウサギにだけ興味を持っているマルスリーヌを成長させようとしたことだ。マルスリーヌは確かに大人になったのだろう。さなぎが蝶になるようにどろどろの塊から羽化したのだろう。一度、自らの境界を超える必要があった。そのためにマルスリーヌは自分で血を流す道を選んだのだ。もう誰にも頼らない決意をして、汚らわしさを抱えて生きていくマルスリーヌは美しい。

 

マンディアルグ「仔羊の血」黒い美術館より

 

 

古井由吉「杳子」と姉と私の愚かな病

「杳子」は1971年の芥川賞を得た古井由吉の小説だ。

 

古井由吉は、内向の世代と呼ばれている。内向の世代は文芸評論家の小田切秀雄が初めて用いた言葉で「60年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感から政治的イデオロギーから距離をおきはじめた(当時の)作家や評論家」と否定的な意味で使った。主に自らの実存や在り方を内省的に模索したとされる。つまり、引きこもった世界感を持っていると揶揄されていた。

 

確かに心のうちの幻想のなかで展開される物語に、影響や意味を持たせるといったことは難しい。だが、私は人生に意味といったものは後付けされるように、物語にも意味は後づけされるのではないだろうかと思っている。「杳子」は、まるで私がこれから行く先の物語のようだった。ただそれだけのことで、わたしという小さな枠組みの宇宙の中では意味のあるものになる。

 

どこか変わった所のある女。そして、それを支える男というのはお気に入りのアンナ・カヴァンスリップストリーム的作風ともつながりがあるように感じられる。両者ともにカフカの影響があり、奇妙さというのはそこからもやってきている。「スリップストリーム」という言葉は、サイバーパンク作家のブルース・スターリングが、作り出した言葉で「不思議さの小説」とも言われている。「見慣れた光景をいつもと違う角度から眺めたような感覚」を誘発するものだ。幻想の革を一枚まとったスリップストリーム小説には、自己の投影により更に深く物語を理解できる側面がある。内向は発信こそ薄いが、自分を振り返ってみるのに最適な材料となる。一般の小説ならば定められた設定があるはずだが、カヴァンの「氷」、古井の「杳子」にはそれがない。登場人物の性格は道徳や倫理で評価され表現されたりはせず、仕草や言葉の一つ一つを読み手に教え、解釈はゆだねられているように描写される。そこの確かにあるものが、ただそこにあるように、描かれることの美しさがある。

 

あらすじ

二十を少し超えたばかりの、まだ固まりきっていない若い男は、山登りの最中で

深い谷底に一人で坐っている女、杳子と出会う。杳子は頂上から降りて来て、岩の上に座って休憩をしようとした時、「まわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて」一歩も動けなくなってしまったようだ。そばに寄って来た男に杳子は、麓まで連れて行ってくれるよう頼んだ。杳子を連れて彼は下山していたが吊り橋の前でまた杳子は蹲る。

「こんな橋を一人で渡れないようじゃ、もう二度と山に来れないよ」

「もう来ません」と杳子は地面を見つめてつぶやいた。

「それどころか、自信を失って、街の中さえ満足に歩けなくなるから……」

女を助けた男だったが、男自身も良い状況にあったわけではなかった。夏休みからずっと家から出ないひきこもりの状況だったのである。男はもしかすると女は自殺をしようとしていたのではないか、と思う。

谷底の出来事から、3ヶ月後。2人は駅のホームで偶然にも再会する。同じ年の学生だと分かり、男と杳子は毎週待ち合わせて会うことを始めた。杳子は精神を病んでいたが、男が谷底で助けてから「あれから、何もかも、とても静かに見えるようになりました。目にしっくりなじんで、とてもきれい。きれいすぎて、もったいないみたい」になった。しかし杳子は相変わらず、いつもの席が空いていなければ喫茶店で座ることも戸惑うような神経症的気質を抱えていた。男は杳子の気質を訓練して日常生活をまともに送れるようにしようとした。杳子もまたそれを望んだ。やがて二人は男女の関係を結ぶ。それからはしばらく会わなかったが、コンプレックスの克服のために杳子より更に病状のひどい姉に会いに行くことにし、杳子がまともになるための努力を男は支えていくのである……

 

私が、まるで私の物語のようだと思った部分を引用する。

 

「あなた、子供、きらい……」

「あたしは、きらいよ。自分みたいな人間がもう一人、どこかを歩いているのを思い浮かべると、鳥肌が立つ。地下牢にでも閉じ込めてやりたいわ」

 

ああ、古井先生の文章は私を見ているように鋭く、私を知らないように美しい。

 

「あたし、病気なんかじゃないわ」

「病気の中へ、坐り込んでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいにふるえて、それで生きていることを感じているの。お姉さんみたいになりたくない」

「姉さんは健康になったのだろう。今では一家の主婦で、二児の母親じゃないか」

「それが厭なの。昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ」

「それでいいんだよ。健康になって病気のことを忘れるのは、しかたのないことじゃないか」

「病気の中にうずくまりこむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ」

 

 

私にも杳子のような姉がいる。私も杳子のようだ。姉は境界例的性格を持つ統合失調症で私は躁うつ気質の発達障害だ。それなりの歪な生い立ちであったから絶対に子供なんて産むわけにはいかない。わたしのような子を増やすのはあまりに無責任だと思っている。逆に姉は幸福な家庭像に憧れていて、それを叶えるために必死になっている。子供を持てば、しあわせになるとか救われるとか、そういうものがそこにあるように思っているようだった。私は、この杳子の気持ちがよくわかる。あまりにもわかりすぎる。刺さるような雨の音、耳を引きちぎるような子供の声、人が気にしないほんの些細なことが私たちには大事に感じる。誰かと心を通わせていても、不安な輪郭の感覚に、ぬくもりの伝わらなさに混乱と孤独にひりひりすること。病院に行くと自分が失われてしまうようで恐ろしいこと。

 

わたし、杳子のことを知っているよ。杳子もきっと私のことを知っている。そして私を好ましく思う人間についても、やさしさをくれる人間の狡さもわかっているよ。

 

「杳子」は精神を病む女子大生杳子に同年の男子大学生が献身的に庇護する話のように解釈されるかもしれない。主人公の杳子に対しての態度は優しく手厚く支えているような様子で描かれている。いわゆる優しい愛のものがたりのようだ。しかし精神を病んでいる娘を好む男は、多くの場合、劣等感を抱えていることへの裏返しとして、更に自分よりも弱い存在を求めているという心性を持っている。この主人公はそういった危うさを持ちながらも、不可解な男と女の中で生きざるを得ないことを知り、自分と他者を同一のもののように認識する。自分の中にあるものを杳子の中に見て。杳子と共に生きようとする。

 

いつか出会う誰か、どうか私の中にあなたを見つけてください。私もきっとあなたの中に私を見つけます。