愛し沼の底

歪みかわいい集め

マンディアルグ「仔羊の血」~あたしは血まみれの子羊よ

マルスリーヌ・カインは被虐の少女として至高だ。アルグの物語には心理描写がない。ただ淡々と残酷な現実が波のように押し迫ってくる。

 

『ピンク色の子羊さん、青い子羊さん、あたしの護衛になってちょうだい……大きな赤い子羊さん……あたしを助けて……青白い子羊さん、疫病みたいな黄色い子羊さん、あなたの毒をあたしに注いで……あたしを殺して』

 

マルスリーヌは識別のために塗られていた塗料を、いまわのおめかしのように思っていた。マルスリーヌは男に凌辱されながらかわいそうな羊たちに呻き嘆く。本、それ自体からまるで絵のように放射される空気を感じるのが、アルグの文章だ。

 

あらすじ

マルスリーヌ・カイン。いうなれば灰と、砂と、血を混ぜ合わせたような女だった』

マルスリーヌは唯一の友人だったウサギを親から子羊の肉として食べさせられ自暴自棄になる。夜には家畜小屋で黒人の屠畜屋に羊の群れの上で陵辱された。その後、男が首をつり死ぬのを眺め、彼に罪を被せ両親を殺害。そしてマルスリーヌは引き取られた修道院で語る。

「あたしは血まみれの子羊よ」

孤児たちは彼女の毛皮と流血の素晴らしい物語に耳を傾けるのであった。

 

はっきり言って良いすけべ本で、羊小屋で羊にのせられて虱の痒さに尿を漏らすという図はすさまじく劣情を湧きたててくれる。良いものだ。さておき、「子羊の血」の素晴らしいところはマルスリーヌの少女と女の間の危うさの魅力というのが大半をしめているが、それと対となる男の動物と人間の境目の鋭い魅力についても語るべきだろう。生き物の皮をはぐ仕事というのは生き物を丸裸にして野ざらしにする荒っぽい野生味がある。あまりに動物的な人間による動物的な行為。それまでマルスリーヌがウサギの皮膚越しに感じていた温かさを沸騰させたような圧倒的生と性の濁流を男は持っている。

 

マルスリーヌが大人になるために必要な残酷が受難の数々である。少女が大人になるためには血と傷みが必要だ。そもそも、マルスリーヌにウサギを食べさせた両親の思惑というのは、いい歳にもなってウサギにだけ興味を持っているマルスリーヌを成長させようとしたことだ。マルスリーヌは確かに大人になったのだろう。さなぎが蝶になるようにどろどろの塊から羽化したのだろう。一度、自らの境界を超える必要があった。そのためにマルスリーヌは自分で血を流す道を選んだのだ。もう誰にも頼らない決意をして、汚らわしさを抱えて生きていくマルスリーヌは美しい。

 

マンディアルグ「仔羊の血」黒い美術館より

 

 

古井由吉「杳子」と姉と私の愚かな病

「杳子」は1971年の芥川賞を得た古井由吉の小説だ。

 

古井由吉は、内向の世代と呼ばれている。内向の世代は文芸評論家の小田切秀雄が初めて用いた言葉で「60年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感から政治的イデオロギーから距離をおきはじめた(当時の)作家や評論家」と否定的な意味で使った。主に自らの実存や在り方を内省的に模索したとされる。つまり、引きこもった世界感を持っていると揶揄されていた。

 

確かに心のうちの幻想のなかで展開される物語に、影響や意味を持たせるといったことは難しい。だが、私は人生に意味といったものは後付けされるように、物語にも意味は後づけされるのではないだろうかと思っている。「杳子」は、まるで私がこれから行く先の物語のようだった。ただそれだけのことで、わたしという小さな枠組みの宇宙の中では意味のあるものになる。

 

どこか変わった所のある女。そして、それを支える男というのはお気に入りのアンナ・カヴァンスリップストリーム的作風ともつながりがあるように感じられる。両者ともにカフカの影響があり、奇妙さというのはそこからもやってきている。「スリップストリーム」という言葉は、サイバーパンク作家のブルース・スターリングが、作り出した言葉で「不思議さの小説」とも言われている。「見慣れた光景をいつもと違う角度から眺めたような感覚」を誘発するものだ。幻想の革を一枚まとったスリップストリーム小説には、自己の投影により更に深く物語を理解できる側面がある。内向は発信こそ薄いが、自分を振り返ってみるのに最適な材料となる。一般の小説ならば定められた設定があるはずだが、カヴァンの「氷」、古井の「杳子」にはそれがない。登場人物の性格は道徳や倫理で評価され表現されたりはせず、仕草や言葉の一つ一つを読み手に教え、解釈はゆだねられているように描写される。そこの確かにあるものが、ただそこにあるように、描かれることの美しさがある。

 

あらすじ

二十を少し超えたばかりの、まだ固まりきっていない若い男は、山登りの最中で

深い谷底に一人で坐っている女、杳子と出会う。杳子は頂上から降りて来て、岩の上に座って休憩をしようとした時、「まわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて」一歩も動けなくなってしまったようだ。そばに寄って来た男に杳子は、麓まで連れて行ってくれるよう頼んだ。杳子を連れて彼は下山していたが吊り橋の前でまた杳子は蹲る。

「こんな橋を一人で渡れないようじゃ、もう二度と山に来れないよ」

「もう来ません」と杳子は地面を見つめてつぶやいた。

「それどころか、自信を失って、街の中さえ満足に歩けなくなるから……」

女を助けた男だったが、男自身も良い状況にあったわけではなかった。夏休みからずっと家から出ないひきこもりの状況だったのである。男はもしかすると女は自殺をしようとしていたのではないか、と思う。

谷底の出来事から、3ヶ月後。2人は駅のホームで偶然にも再会する。同じ年の学生だと分かり、男と杳子は毎週待ち合わせて会うことを始めた。杳子は精神を病んでいたが、男が谷底で助けてから「あれから、何もかも、とても静かに見えるようになりました。目にしっくりなじんで、とてもきれい。きれいすぎて、もったいないみたい」になった。しかし杳子は相変わらず、いつもの席が空いていなければ喫茶店で座ることも戸惑うような神経症的気質を抱えていた。男は杳子の気質を訓練して日常生活をまともに送れるようにしようとした。杳子もまたそれを望んだ。やがて二人は男女の関係を結ぶ。それからはしばらく会わなかったが、コンプレックスの克服のために杳子より更に病状のひどい姉に会いに行くことにし、杳子がまともになるための努力を男は支えていくのである……

 

私が、まるで私の物語のようだと思った部分を引用する。

 

「あなた、子供、きらい……」

「あたしは、きらいよ。自分みたいな人間がもう一人、どこかを歩いているのを思い浮かべると、鳥肌が立つ。地下牢にでも閉じ込めてやりたいわ」

 

ああ、古井先生の文章は私を見ているように鋭く、私を知らないように美しい。

 

「あたし、病気なんかじゃないわ」

「病気の中へ、坐り込んでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいにふるえて、それで生きていることを感じているの。お姉さんみたいになりたくない」

「姉さんは健康になったのだろう。今では一家の主婦で、二児の母親じゃないか」

「それが厭なの。昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ」

「それでいいんだよ。健康になって病気のことを忘れるのは、しかたのないことじゃないか」

「病気の中にうずくまりこむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ」

 

 

私にも杳子のような姉がいる。私も杳子のようだ。姉は境界例的性格を持つ統合失調症で私は躁うつ気質の発達障害だ。それなりの歪な生い立ちであったから絶対に子供なんて産むわけにはいかない。わたしのような子を増やすのはあまりに無責任だと思っている。逆に姉は幸福な家庭像に憧れていて、それを叶えるために必死になっている。子供を持てば、しあわせになるとか救われるとか、そういうものがそこにあるように思っているようだった。私は、この杳子の気持ちがよくわかる。あまりにもわかりすぎる。刺さるような雨の音、耳を引きちぎるような子供の声、人が気にしないほんの些細なことが私たちには大事に感じる。誰かと心を通わせていても、不安な輪郭の感覚に、ぬくもりの伝わらなさに混乱と孤独にひりひりすること。病院に行くと自分が失われてしまうようで恐ろしいこと。

 

わたし、杳子のことを知っているよ。杳子もきっと私のことを知っている。そして私を好ましく思う人間についても、やさしさをくれる人間の狡さもわかっているよ。

 

「杳子」は精神を病む女子大生杳子に同年の男子大学生が献身的に庇護する話のように解釈されるかもしれない。主人公の杳子に対しての態度は優しく手厚く支えているような様子で描かれている。いわゆる優しい愛のものがたりのようだ。しかし精神を病んでいる娘を好む男は、多くの場合、劣等感を抱えていることへの裏返しとして、更に自分よりも弱い存在を求めているという心性を持っている。この主人公はそういった危うさを持ちながらも、不可解な男と女の中で生きざるを得ないことを知り、自分と他者を同一のもののように認識する。自分の中にあるものを杳子の中に見て。杳子と共に生きようとする。

 

いつか出会う誰か、どうか私の中にあなたを見つけてください。私もきっとあなたの中に私を見つけます。